この記事は、AI に本気で向き合う時に出る自分の荒っぽさを、「車の運転は本性が出る」という話と重ねて考えたエッセイだ。結論を先に書く。AI への苛立ちの多くは、AI の能力ではなく自分の説明力の問題だった。それでも、苛立つほど本気だった事実は消えない。
車の運転は本性が出る、とよく言われる。普段は穏やかな人が、ハンドルを握ると荒っぽい言葉を吐く。文句が止まらなくなる。私は運転免許を持っていないので、これは全部聞いた話で、実体験ではない。
それでも、AI に向き合っている時の自分を振り返ると、なんとなく分かる気がする。
私は AI に対して、わりと荒っぽい。本気で向き合っているから、つい強い言葉になる。「だから!」「違う!」「何でそんな判断するの?」。対面の人間相手なら絶対に出ない言葉が、AI 相手だと出る。たぶん、これは車の運転と同じだ。
なぜ緊張感が本性を出すのか
たぶん、思った通りに動かない時間が連続するからだ。運転も AI も、ズレが積み重なって苛立ちになる。
車の運転で本性が出る理由は、たぶん「思った通りに動かない時間が連続する」ことにある。前の車が遅い。信号が変わる。歩行者が出てくる。瞬間ごとの判断と苛立ちが積み重なる。
AI も似ている。「こうしてほしい」と思ったのに、ズレた応答が来る。説明し直す。それでもズレる。本気でやっているからこそ、ズレが積み重なって苛立ちになる。
その苛立ちが言葉になって出る時、それは本性なのかもしれない。
AI への苛立ちの正体は何か。三つに分類した
強い言葉が出た瞬間を後から分類すると、だいたい三つに分かれた。
ここで正直に立ち止まる。自分が AI に強い言葉を出す瞬間を、後から思い返して分類してみた。
- 前提を共有し損ねた時。 自分の頭の中にしかない条件を、言葉にしないまま「分かるだろう」と投げる。案の定ズレる。
- 同じ説明を三回した時。 一度で伝わらないことに苛立つ。だが三回言っているのは、たいてい一回目の言い方が悪かったからだ。
- 自分の指示が曖昧だったと後で気づいた時。 これが一番きつい。荒っぽい言葉を出した数分後に「今のは私の言い方が悪かった」と気づく。怒りの矛先が、自分に向き直る。
並べてみて分かったのは、苛立ちの多くが AI の能力の問題ではなく、自分の説明力の問題だったということだ。相手のせいにしていた時間の半分くらいは、たぶん自分のせいだった。認めるのは少し恥ずかしい。
運転できない私が、なぜ運転の比喩を使うのか
AI 相手の苛立ちだけは実体験だからだ。
白状しておく。私は運転免許を持っていない。一度もハンドルを握ったことがない人間が、「運転は本性が出る」という命題を土台にして、人間性の話を組み立てている。なかなか間抜けな構図だ。
「運転で本性が出る」は、私にとって完全に聞いた話だ。助手席から見た光景、運転する友人がこぼした言葉、ドラマで見た描写。その寄せ集めから作った像でしかない。実際にハンドルを握ったら、まったく違う何かが出るのかもしれない。
それでもこの比喩を捨てない。AI 相手の苛立ちのほうは、まぎれもなく実体験だからだ。運転は借り物、AI は地のもの。借り物の比喩で、地のものを照らしている。その境界だけは、正直に置いておきたい。
AI に荒っぽくなるのは悪いことか
悪いことばかりではない。無関心な相手には、人は荒っぽくならない。
どうでもいい仕事なら、もっと淡白になる。AI に対して荒っぽくなれるのは、本気で何かを作ろうとしているからだ。
車の運転で本性が出るのは、「ちゃんと目的地に着きたい」からだ。AI 相手に荒っぽくなるのは、「ちゃんと作りたい」からだ。
苛立ちの半分が自分のせいだったとしても、苛立つほど本気だったという事実は消えない。どうでもいい相手に、自分の説明力を悔やんだりはしない。
今日この頃
AI と関わる仕事が当たり前になった今、自分の人間性は AI とのやり取りに出ているのかもしれない。誰かに見られているわけではない。それでも、そのやり取りの中に私自身がいる。
荒くなる自分も、後で自分のせいだと気づく自分も、どちらも本気の側の姿だ。本気の相手にしか、人は荒くならない。
車のハンドルを握る人と、AI と話す人。どこか、似ているのかもしれない。


