この記事は、ゲームのプロモーション映像を作っていた運営者のエッセイだ。映像で決めた魅せ方を、ゲーム本体にも反映することになった経緯を書いた。主張は1つ。マーケティングと制作は別の活動に見えて、どちらも「体験を設計する」同じ仕事だ。だから、マーケティングを真剣にやると、そのまま制作の改善案になる。
最近、AI と話していて気づいたことがある。
自分のゲームのプロモーション映像を編集していた。「こう魅せたい」「ここで盛り上げたい」と、1カットずつ意図を込めていた。ある瞬間、こう思った。この魅せ方、ゲーム本体にも欲しい。
映像は本来、ゲームを売るための外向きの道具だった。それなのに、映像を作るほどゲーム自体を磨きたくなる。どちらがゲーム制作で、どちらがマーケティングの制作物なのか。もう分からなくなった。
なぜマーケティングと制作の境界が薄くなるのか
マーケティングのために作った映像が、制作側にそのまま戻ってくるからだ。外向けに作ったものが内側を変え、内側が変わればまた外向けを作り直す。
これまでは頭の中で分けていた。マーケティングは売るための活動で、外向け。制作はゲーム自体を作る活動で、内向け。
実際にやってみると、この区分けは保てなかった。映像で「こう魅せたい」と決めると、「ならゲーム自体もそう魅せられるべきだ」と感じる。映像の判断が、そのまま制作への要求になる。
外向けの映像が内側のゲームを変える。ゲームが変われば、映像も作り直しになる。このループの中にいると、どちらがどちらなのか分からなくなる。
映像の1カットは、ゲーム本体をどう変えたのか
カット間隔を詰めた1つの判断が、ゲーム本体の演出尺を詰める判断になった。抽象論では伝わらないので、実際に起きた往復を1つ書く。
映像のある区間で、複数のシーンを順に見せる構成にしていた。最初の編集では、1シーンずつ丁寧に見せようとして、それぞれを長めに置いた。通して再生すると、間延びして見えた。
「ここはもっとテンポよく見せたい」と思い、カット間隔を詰めた。 1シーンを見せる尺を削り、次のシーンへ早く渡す。映像はそれで一気に締まった。
問題はそのあとだった。詰めた映像をゲーム本体と見比べると、本体側の演出の方が明らかに冗長だった。 映像では「コンマ数秒で次へ渡す」と判断した演出に、ゲーム本体ではその何倍もの「間」を置いていた。映像で気持ちいいテンポを知ってしまうと、本体の間が「待たされている時間」に見える。
だから、ゲーム本体の演出尺も詰めた。エフェクトの表示時間、次の操作を受け付けるまでの待ち、画面が切り替わる間。映像で「詰めると締まる」と分かった分だけ、本体でも削った。
往復はここで終わらなかった。本体を詰めると、今度はその新しいテンポで映像を撮り直したくなった。映像で見つけたテンポを本体に入れ、本体が変わったから映像を作り直す。 1カットの編集判断が、ゲームと映像のあいだを往復しながら、両方の「間」を同時に削っていった。
なぜ外向けと内向けが同じ「体験設計」に収束するのか
マーケティングは体験の予告編で、ゲーム本体は体験そのもの。 だから、この2つは別物に見えて、評価している軸が同じになる。運営する側として言語化すると、こうなる。
映像を見た人が「面白そう」と感じる理由と、実際に遊んだ人が「面白い」と感じる理由は、根っこで同じものを指す。テンポ、気持ちよさ、次が見たくなる引き。それを映像で設計しても本体で設計しても、やっていることは「体験を設計する」の一点に収束する。
予告編が良くて本体がつまらないなら、予告編が嘘をついている。本体が良いのに予告編で伝わらないなら、予告編の設計が下手だ。どちらのズレも原因は1つで、同じ体験を外と内で別々の基準で作ったことにある。
だから、マーケティングを真剣にやると、それがそのまま制作の改善案になる。「こう魅せたい」と思った瞬間は、「こう作りたかった」を発見した瞬間でもある。プロモーション映像は制作の鏡になる。
この感覚は、AI と話していて初めて言葉になった。一人で考えていたら、たぶん「映像作りに時間を使いすぎている」と感じて終わっていた。AI に相談しながら作業したから、その時間が「ゲーム本体を見直す時間」でもあったと気づけた。
ゲームと映像、どちらが本体なのか
多分、両方とも本体だ。どちらが本体でどちらが副次的なのか、自分の中ではもう曖昧になった。
ゲームを作るために映像を作り、映像を作るためにゲームを直す。終わらないループの中で、両方が同時に育っていく。


